H27.07.15 馬場正勝 (E11)
H25.10.28 石井 昇 (M14)
H25.08.13 西田利和 (E11)
H25.07.26 馬場正勝 (E11)

このページは、同窓生および元教職員のための 「リレー投稿のページ」 です。投稿者は、ホームページ運営委員会のメンバーからスタートさせていただき、原則として、投稿者が次の投稿者に指名 (依頼) するリレー方式をとることとさせて頂きます。
各学科が競い合うように投稿数が増え、内容が充実しますことを期待しております。

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委員長 鈴木祥子 (H4)

小笠原諸島「父島」の旅

HP運営委員 馬場正勝(電気科11期) ) 

【片道26時間の船旅】
小笠原諸島は東京から南に約1000Kmに位置し、一般島民が定住している父島・母島、自衛隊の基地が置かれている硫黄島、海底火山爆発で話題となっている西之島など、大小30程の島々からなる海洋島です。大陸と一度も陸続きになったことがなく、独特の進化を遂げた固有種の生態系を観察することができます。小笠原諸島には飛行場がなく、交通手段は7日に1便の定期船で、東京竹芝桟橋から26時間の船旅となります。 船酔いは大丈夫と自負していましたが、東京湾を出るとさすが太平洋の荒波、父島に到着するまでの20時間余りは、船酔いの旅の始まりとなりました。

【旅の目的】
世界自然遺産の地を歩き見る、太平洋戦争の戦跡見学、魚釣り、日本一星空がきれいと言われている小港海岸の星空を眺める等、欲張りの目的を持って出かけましたが、天候にも恵まれ満足な旅となりました。

【父島の自然にふれる】
 船上からの見学ですが、紺碧の海、サンゴ礁を回遊する亜熱帯の魚群、さながら自然水族館のようです。この美しさは私の文章能力では中々表現出来ません。それほど濃く透き通り、カラフルなサンゴの海の光景でした。サンゴのかけらが混じる白い砂浜は意外と小さいが、人の立ち入りの難しい場所が多くあり海亀の産卵には絶好の場所だと聞きました。  山歩き・森歩きでは、植物や昆虫類の固有種・希少種のガイドを受けながらのトレッキングでした。原生状態の森林は自生する樹木の70%が固有種であり低木が多く、高木の外来種は薬剤で枯らし、固有種森林の拡大を推進しているようだ。父島の山は低く雨量が少なく乾燥した気候のため樹木も低いと聞きました。他の島は違った環境らしい。 観光客が上陸できる島は、父島・母島・南島(無人島)の3島であり、南島は環境保護のため、上陸人員が規制されており、ガイド同行が義務づけられています。週一便の船(最大700名)で観光客の、量の規制、観光ルートの規制などで自然との共生を推進しおられるようだ。

【戦争の記憶がそのまま残されている】
 本土防衛の最前線、硫黄島が玉砕した時の作戦本部は父島に置かれており、父島の部隊は攻撃に出るのではなく、米軍を湾内に引き寄せ上方から攻撃する作戦であったようです。山の頂きから湾内を見下ろせる場所に多くの要塞が築かれています。 幸いにも地上戦には至らずに終戦を迎え、多くの要塞がそのままの形で残されています。要塞跡はジャングル化し、ガイドに頼らなければ行けるような場所ではありません。旧陸海軍の山砲・高角砲など、設置されたその場所で錆びはてた原型を残しています。しかし風化が激しく、このままでは自然消滅していくことでしょう。戦跡見学の観光客は少ないとのことでした。

【その他の見るべき所】
 魚釣りは多くの規制があり(島周辺の磯)まき餌はダメ、食べる分しか釣ることが出来ない等、環境面からの厳しい規制はあるものの、竿をたれればいくらでも釣れそうです。  1968年までは米軍の占領下であり、米軍が開発した中心部はどこか違うと思いながら見ていたら歩道の幅が広く、後に日本が開発した場所と見比べ違いが判りました。  その他、新聞を読む習慣がなく、代わりにネット環境は整備されていました。

【船から見た東京の街】
 帰路、羽田沖から見える東京の街は、遠くにスカイツリ―、東京タワー、林立する高層ビル群、羽田空港の4本の滑走路から、隙間なく離発着する様子に見とれていましたが、経済大国日本の一端が鮮明に表わされているようでした。

以上

 

 

まなびある記
〜生野工高あたりを巡って〜

石井 昇(機械科14期) 

私は本校卒業生です。1940年大阪市内生まれ。
M14生(58年卒)で、以来勤め人としてメーカー一筋で平穏ばかりではなかったが、 無事勤め終えたつもりである。退職後は余裕のある時間が多くなり、これまで歩んできた世界と違う分野での視野を拡げるため、自己研修も兼ね市民大学の文学コース・区民講座や文学・歴史の上での史跡・旧跡めぐり等々専門講師の講義・解説を受けることを続けている。これらは、同期の今井氏とも連れ立って参画しておりお互いの励みとなっている。

彼は、ここ数年に亘り、地域の活性化を目指した地区サークルに取り組み、その代表者として活躍されている。『生野区まち案内人の会(愛称:いくナビ)』である。
この会には、これまで2〜3回手伝いを兼ね参加したが、今回、生野区南部まち歩きとして源ヶ橋・舎利寺コースに一般参加をした。(参加者:約60名)
9月29日(日)当日JR寺田町駅前「大道南公園」がスタートとなる。ここは、大阪教育大付属高・中学天王寺校舎前であり、あのノーベル賞受賞 山中伸弥 教授ご夫妻の出身校である。記念撮影の後、公園より東へ歩を進め、古来猫間川に架かる「源ヶ橋跡」の由来伝説、住吉の海が見えたと伝えられる「沖見地蔵」有形文化財指定を受ける「源ヶ橋温泉」を経て、本校内にある「大阪慈恵病院跡」へたどり着く。ここは今井代表自らが本校PRも兼ね解説があった。

大阪慈恵病院について少し詳しく述べる。
この病院は、官営の施設ではなく多くの篤志家によって、恵まれない人々の医療施設として開設された病院として世に知られている。
歴史は明治21(1888)年に近代医学の祖、緒方洪庵の高い医療・教育論理をもつ流れを継承する高橋正純正直兄弟(正直は適塾出身)緒方惟準(洪庵の次男)などが、その理想を結実させるために創設したものと思われる。
当初は、東区内(現在の中央区唐物町)にあった円光寺で診療をはじめ、移転を重ねながら拡張していった。大正2(1913)年引済会に引き継がれ、大正13(1924)年に現在の生野工業高校の地に移された。
その後、昭和19(1944)年に大阪市に移管されたが、昭和20(1945)年に戦災で焼失し、今は吹田市古江台にある大阪市立弘済院付属病院となる。
昭和20年の戦災に遭うまでは本社北側に、この病院は隣接していたと思われる。

大阪慈恵病院跡の碑と説明文は、本校校門を入ってすぐ玄関左横にある。(写真)

 

 


大阪慈恵病院の歴史説明は少し長くなったが、続いて今井代表より生野工高のPR紹介があったので、披露しておく。
本校は「物づくりは人づくり」を合言葉で、しっかりとした「人づくり」教育を目指しております。機械科、電気科、電子機械科の3科あり、それぞれ80名 総計700名の生徒が学んでいます。卒業生には、知名人が数多くいるが、筆頭には69年卒業の澤田秀雄 氏(H,I,S会長)がおります。
長崎県テーマパーク「ハウステンボス」は03年に倒産、再建途上のなか支援に乗り出し、瀕死の王国を1年で黒字にしたことで世に知られている。近著『運をつかむ技術』には「失敗することを恐れてチャレンジしなくなることを嫌う」とある。
これが彼の生きる流儀である。
以上、学校紹介です。皆さまにはこれをご縁に本校を大いに宣伝してやって下さい。

「いくナビ」はその後、生野商店街を外れ、「成恩寺」へ向う。
境内には、江戸時代の秀作となる穏やかなお顔立ちの釈迦涅槃像が祭られている。小休止後、旧桑津街道を北進し生野八坂神社、生野神社、舎利尊勝寺を巡り歩いた。
今回は、参加者も多く、生野区長も終始参加され、この会に対する期待の大きさを感じた。案内人の史跡案内説明内容も良かったと思う。スタート時での記念写真も解散時、手元に届けたのは参加者には好評であった。今回の「いくナビ」総合点は、成功であったと思われる。

以 上

 

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委員長 鈴木祥子 (H4)

 

中国あれこれ・・・・・・・(内モンゴル自治区を旅して)
西田利和 (電気科11期) 
 中国に駐在し仕事を通じ知り合い懇意になった中国人、台湾人の方々と機会ある毎に日本人も含め3カ国人で一緒に中国の名勝旧跡を訪ね交友を温めようと云うことになった。 それも一般的な旅行でなく“ 一般の人がなかなか行けない所…” に行くことになった。 そんなことで中国の友人のふるさとである“内モンゴル自治区”を旅行することに決まった。 メンバーは台湾人4名、中国人1名(以後、王さんと呼称する)そして日本人は3名である。 3名のうち1名は私と同じく生工電気科11期生の馬場さんをお誘いした。
中国の旅行は一般的には航空便を利用するが、今回は中国の情緒を満喫するために移動は全て汽車と車にした。宿泊の確保は現地の王さんの友人にお願いする、と取り決めた。
  そして旅行開始…。全員北京駅に集合…。無事、全員が各地から集合し “ほっと…” した。 さぁー出発と思ったときに台湾人から西田さん汽車は3時間半遅れますとの連絡である。 日本人グループは何で…始発からそんなに遅れるの・・と気を揉んでいる。 中国人も台湾人を何ら心境の変化なく平然としている。 なぜと聞くと“中国では時間があって無いようなもんですょ“と云われ、こんなものかなぁーと半信半疑で聞き入っていた。
  さぁー出発。北京駅から目的地のウランホト駅まで19時間の列車の旅である。 我々乗車したのは特急の特別寝台室で何度か“うとうと…”としながらも夜遅くまで北京駅で買い込んだ “酒とつまみをあてに…” 中国・台湾・日本での家族生活のこと、子供の教育のこと、またまた仕事の悩み、辛さ等々についてはワイワイガヤガヤと話していた。 そんな時間の経過とともに列車は次第にモンゴル平原を快走、車窓から眺める広大なモンゴル平原の地平線上から旭の昇る光景の素晴らしさを実感した。
  ウランホト駅に到着し改札口を出ると数台の高級車と何人か中国人が出迎えている。 想定もしない出迎えなので王さんに確認すると日本人、台湾人の友人がモンゴルに観光にくるので歓待するために彼の地元の友人たちに協力を要請し観光のための準備をしていたらしい。 そんなことで市政府常設の迎賓用の包(パオと発音する、遊牧民の移動用簡易住居でモンゴルの名物でもある)に案内していただき民族衣装をまとったモンゴル女性から白酒(バイジョウと発音する、日本の焼酎の感じでアルコール度数は36度から63度と非常にきついお酒である)での歓待を受ける。この白酒の洗礼を受けた後に包に入るのがしきたりたそうだ。   包内部にはすでに王さんの地元の友人、また市政府の方も何人か参加されていた。 料理はともかく、“羊三昧…“ ですべての料理が羊を主体とした料理であった。 羊と白酒を酌み交わし中国語、台湾語、日本語が飛び交い和やかな雰囲気での宴会となった。 宴たけなわになると “カラオケ交換会” の開始である。 日本人も指名され1人が “北国の春…” を熱唱すると拍手喝采である。 中国では “北国の春” 一曲で完全に盛り上がります。 また、隣席の市政府の方にモンゴルの人はなぜ凄くお酒がと強いのですか?と質問すると中国の東北部は11月から翌年の3月頃まで主要道路が凍結と積雪で交通手段が麻痺し産業活動など経済活動が停滞してしまいどうしても家に居る時間が長くなりお酒を飲む機会が多くなり酒豪になってしまう、とのことでした。わかったようなわからないような…回答でした。翌日は台湾人、日本人で歓待していただいた感謝の意をこめて返礼の宴会を開催した。 白酒が何本空いたかわからない…。そんな盛り上がりの返礼宴会でした。
  翌朝ホテルの周辺を散歩しょうと云うことになり、外にでると9月上旬にもかかわらず水たまりの水が凍っている。これには日本人も台湾人もびっくり。 中国は寒冷地から亜熱帯地方まで広大な国土であり旅行する時には服装には十分な準備が必要であることの実感と再認識をさせられた。 また、ホテルの近くから眺める地平線上に広がるモンゴル平原の素晴らしさと空気の新鮮さを堪能した。
  そしていよいよモンゴル大平原への旅の始まりである。 ワゴン車を貸し切り全員の荷物を積み込んで旧満州鉄道に沿っての内モンゴル西部を目指しての大移動である。 想像していたよりは道路は整備され快適なスタートであった。走るにつれ風景もしだいにモンゴルを思わせる大草原と丘陵地帯の雄大な景色に移り変わってモンゴルに来たとの実感を味わった。そして200km前後、離れた小さな田舎街にたどり着いた。 この街は王さんのお姉さんの嫁ぎ先であり、レストランを経営されていた。 ここでも大歓迎を受けすべての料理が羊主体で “焼き小羊・蒸した羊等々” である。 ご主人は日本人・台湾人を初めて見たと感激され、白酒と羊で笑談し盛り上がった。 もう一生かかって食べる量の羊を一気に食べた感じである…。 最後に言われてたのは現地で採れる “わらび” は無農薬栽培し日本に輸出している。と誇らしげに云われていたのが印象的であった。 この街の周辺は観光するものはなく、街のバザールを見学し日常生活にどんなものが利用されているのかを観ていた。 そして次の目的地は旧満州鉄道の終着駅アルシャンである。



  我々が走行する道路は鉄道と並行して走っており時々、列車と行き交う度に “これが満州鉄道か…” との哀愁と凄い歴史のある鉄道だなぁと実感していた。 また、あの文化大革命で保護(逮捕??)された人たちの収容所なども外から見ることができた。 平原を走行していると山崎豊子さん原作の大ヒットしたドラマ『大地の子』の舞台となった場所も見ることができた。 そしてアルシャンに近づいた頃、草原とは違った光景が見受けられ王さんに確認するとロシア軍に攻撃され破壊された日本の空港であるとのことであった。 現場を見たいとお願いし車を停車させ現場に向かった。 戦後60年以上経過しているにかかわらず滑走路は破壊したまま、格納庫も同様であった。 やるせない気持ちと当時の人の苦悩を思い浮かべながら現場で立ち止まっていた。
  そんな状況から気を取り直し再出発、まもなくアルシャンに到着した。 アルシャンは旧満州鉄道の終着点とある同時に当時としてはロシア国境に近く最も重要な拠点で あったらしい。当時の日本の 『やまと旅館』 が中心となって温泉など生活環境を整備したらしい。 現在のアルシャンはリゾート開発され富裕層向けの観光地として発展してる。 翌朝ロビーで神妙な顔つきで中国人、台湾人の友人が何か話している。時々声を荒げていた…。 よくよく話を聞くとウランホトから北京までの帰りの切符は売り切れになっているとのことである。 台湾人は前もって北京駅で往復切符を買おうと言っていたが王さんは帰るときにウランホトで買えば十分だ。と言っていたらしいが結果として売り切れになっていたものである。 “こんなことがよくあるんですゎ…” と台湾人はあきれ顔であった。また、台湾人グループは旅行の延期は不可能であり代替えの航空便を探したが時間帯があわず航空便をダメであった。 また、帰国まで数日あるので状況を見ながら対応しょうと両者をなだめ再出発することにした。



  そして我々の最大の目的である大草原にある王さんの友人が経営する牧場への出発である。 出発地点から80kmで2時間で程度で目的地に到着するとのことであった。 出発し次第にモンゴル特有の草原地帯に放牧されている羊の大群、またその近辺には小さな包が点在し、まさしくモンゴル特有の光景を堪能していた。 走行するに従い地図なき “ガタガタ道” の連続、また工事中で通行禁止のため迂回道路を探す。 またまた、道路が冠水しており全員が降りて車を押して道路を横断する等々の悪戦苦闘で予定の2時間をはるかにオーバーし6時間かけてやっとのことで全員が疲れ切って状態で目的地の牧場にたどりついた。大変な道中であったが、その時に眺めた夜空は少しジャンプすれば掴めそうな満点の星空であり、この大草原の夜空も忘れることのできない光景の一つである。 ここでも王さんの友人に大歓待していただいた。特に内モンゴルの田舎の田舎での牧場経営であり近辺の同業者の方々も参加され、台湾人・日本人を招待するのだとの意気込みで盛大に宴会を催ししていただいた。やはり“羊三昧と白酒”主体の料理であった。 贅沢な話ですが羊はこれが最後で結構ですとの心境でもあった。
  翌朝、全員で宿舎の周辺を散歩することにした。 広大な平原を旭が地平線上に昇り始めた風景に見惚れていた。また小川に流れる澄み切った水の冷たさにはびっくりした。豚も犬も放し飼いである。 よくぞまあ、この遠い地を訪れることができたと感慨深いものがあった。
  そしていろいろな “中国あれこれ…” の想いを残しモンゴル旅行も最終日になりベースキャンプのウランホトに向かった。ウランホト到着後に汽車の切符、航空便の有無を調べたが全て入手不可であった。 残るは車に移動のみであり北京まで1300km、所要時間19時間をかけて移動することを決断した。 翌朝、ワゴン車のレンタルと運転手2名と契約し北京に出発した。 一般道、国道、高速道路を走破し走行途中での出来事は言葉に言い表すことのできないほどの中国の生活環境、習慣を見聞きし、そしてまたさまざまに人々にも会うことができた。
  北京に到着したのは深夜の3時でホテルに直行し身体を癒した。 翌日、日本人グループと台湾人グループで有名レストランで“解団式”を行い、今後ともこのような親睦旅行を継続してやっていこうと一致結束し再会を楽しみに解散した。その後、台湾人グループは我々より先に帰国した。 我々、日本人グループは翌日、“万里の長城” に行くことにした。 万里の長城には数か所から上れるルートはあるがもっとも観光ルートとして整備され、かつ安全な “八達嶺” から上ることにした。 私は万里の長城に来るのは3回目になるので馬場さんと友人2人で城壁を観光、散策していただき私は城壁の退避場で待機することにした。少し怠け者です…。 彼らは “世界文化遺産万里の長城” の壮大さと観光するには大変な体力はいることを実感と感動されて戻ってこられた。そして翌日、無事帰国した。
  内モンゴル自治区の旅行を通じいろいろと “中国あれこれ……” を知ることと体験したことを自分の成長の糧として今後に生かしていきたいと思います。

2013年8月13日
HP運営委員 西田 利和(E11)
50年ぶりに訪ねた母校
馬場正勝  (電気科11期) 
  暑い日の放課後「物づくりは人づくり」の垂れ幕を眺めながら、少し緊張して校門を入ると、すぐに「こんちわ」と生徒から声をかけてくれた。燃えろ生野工業の横断幕が掛けられた変形気味の狭いグランドから、野球部の大きな掛け声が響きわたっていた。体育館も同様にバスケットボール、バレーボールと活発的なクラブ活動が行われている様子が伺えた。50年前の記憶からは、建屋・レイアウトなど昔の面影はないが、変形気味の狭いグランドが昔を思いださせてくれた。すれ違う生徒全てが、大きな声でしっかりと挨拶をしてくれる、その挨拶も自然と声が出ているようだった。
  機械加工実習室では、ソーラーカーを製作中で、生徒に声を掛けると手を止め丁寧に、しかも楽しそうに説明をしてくれた。奥の方でも数人が集まって、真剣に話し合っている様子が伺えた。この姿が学校HPに掲載されている「ものづくり技術者」育成の、ベースになるのだなと思いながら見学していました。
  短い時間でしたが、大きな声での挨拶、物づくり指導、就職内定率100%等々素晴らしい財産を見聞し、理屈抜きに楽しい訪問でした。同窓会HP運営委員として、商店街の方とお話させて頂いたら、生工の物づくりとタイアップして、活性化を加速させる計画を、具体的に進めていると嬉しいお話を聞きました。懐かしい商店街、昔のイメージと違った疎開道路周辺を散策し、滋賀への帰途につきました。
  最後になりましたが、宮坂先生には、お忙しい中ご丁寧にご案内頂きありがとうございました。改めてお礼申し上げます。


ソーラーカー製作中