私は本校卒業生です。1940年大阪市内生まれ。
M14生(58年卒)で、以来勤め人としてメーカー一筋で平穏ばかりではなかったが、 無事勤め終えたつもりである。退職後は余裕のある時間が多くなり、これまで歩んできた世界と違う分野での視野を拡げるため、自己研修も兼ね市民大学の文学コース・区民講座や文学・歴史の上での史跡・旧跡めぐり等々専門講師の講義・解説を受けることを続けている。これらは、同期の今井氏とも連れ立って参画しておりお互いの励みとなっている。
彼は、ここ数年に亘り、地域の活性化を目指した地区サークルに取り組み、その代表者として活躍されている。『生野区まち案内人の会(愛称:いくナビ)』である。
この会には、これまで2〜3回手伝いを兼ね参加したが、今回、生野区南部まち歩きとして源ヶ橋・舎利寺コースに一般参加をした。(参加者:約60名)
9月29日(日)当日JR寺田町駅前「大道南公園」がスタートとなる。ここは、大阪教育大付属高・中学天王寺校舎前であり、あのノーベル賞受賞 山中伸弥 教授ご夫妻の出身校である。記念撮影の後、公園より東へ歩を進め、古来猫間川に架かる「源ヶ橋跡」の由来伝説、住吉の海が見えたと伝えられる「沖見地蔵」有形文化財指定を受ける「源ヶ橋温泉」を経て、本校内にある「大阪慈恵病院跡」へたどり着く。ここは今井代表自らが本校PRも兼ね解説があった。
大阪慈恵病院について少し詳しく述べる。
この病院は、官営の施設ではなく多くの篤志家によって、恵まれない人々の医療施設として開設された病院として世に知られている。
歴史は明治21(1888)年に近代医学の祖、緒方洪庵の高い医療・教育論理をもつ流れを継承する高橋正純・正直兄弟(正直は適塾出身)緒方惟準(洪庵の次男)などが、その理想を結実させるために創設したものと思われる。
当初は、東区内(現在の中央区唐物町)にあった円光寺で診療をはじめ、移転を重ねながら拡張していった。大正2(1913)年引済会に引き継がれ、大正13(1924)年に現在の生野工業高校の地に移された。
その後、昭和19(1944)年に大阪市に移管されたが、昭和20(1945)年に戦災で焼失し、今は吹田市古江台にある大阪市立弘済院付属病院となる。
昭和20年の戦災に遭うまでは本社北側に、この病院は隣接していたと思われる。
大阪慈恵病院跡の碑と説明文は、本校校門を入ってすぐ玄関左横にある。(写真)
大阪慈恵病院の歴史説明は少し長くなったが、続いて今井代表より生野工高のPR紹介があったので、披露しておく。
本校は「物づくりは人づくり」を合言葉で、しっかりとした「人づくり」教育を目指しております。機械科、電気科、電子機械科の3科あり、それぞれ80名 総計700名の生徒が学んでいます。卒業生には、知名人が数多くいるが、筆頭には69年卒業の澤田秀雄 氏(H,I,S会長)がおります。
長崎県テーマパーク「ハウステンボス」は03年に倒産、再建途上のなか支援に乗り出し、瀕死の王国を1年で黒字にしたことで世に知られている。近著『運をつかむ技術』には「失敗することを恐れてチャレンジしなくなることを嫌う」とある。
これが彼の生きる流儀である。
以上、学校紹介です。皆さまにはこれをご縁に本校を大いに宣伝してやって下さい。
「いくナビ」はその後、生野商店街を外れ、「成恩寺」へ向う。
境内には、江戸時代の秀作となる穏やかなお顔立ちの釈迦涅槃像が祭られている。小休止後、旧桑津街道を北進し生野八坂神社、生野神社、舎利尊勝寺を巡り歩いた。
今回は、参加者も多く、生野区長も終始参加され、この会に対する期待の大きさを感じた。案内人の史跡案内説明内容も良かったと思う。スタート時での記念写真も解散時、手元に届けたのは参加者には好評であった。今回の「いくナビ」総合点は、成功であったと思われる。
以 上
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